1月7日付
人生設計

「もの」と離れた豊かさの追求

自らふさわしい“答”を見つける
あすから一味異なる 「一歩」 を


  「一年の計は元旦にあり」 といいますが、正月休みには皆さん色々と今年の計を立てらたことでしょう。改めて辞書をひもとくと 「計」 とは将来についての展望・構想・計画とあります。一日の計は朝に、一年の計は元旦にあり。物事は最初が肝心であるから一日の計画は早朝に、一年の計は元旦に立てるべきであるという教えであります。
 企業や組織では例外なく新年度の方針・計画・予算を明らかにして組織のメンバーの心を一つにして目標実現に向かいますが、我々個人や家庭にあってもこうしたことは必要ではないでしょうか。とりわけこれからの時代は流れに身を任せていると、とんでもない方向へ漂流しかねません。国や地方の膨大な借金はどうするのかと思っていましたら、いよいよ取り立てが始まるようです。
 我々自身は借りた覚えはありませんが、どうも制度上は我々が返さなければならないようです。大増税が始まる一方で、給付は年々圧縮されるという最も恐れていることがいよいよ現実になりそうです。いずれインフレが起きて我々の預貯金は目減りするでしょうし、景気や経済は本当のところはそんなに良くなることはないでしょうから、返済は結局のところ我々の財布から出すことになるのでしょう。
 景気回復への期待はもちろん大きいのですが、ちょっと考えて見れば、これは無理だなとすぐわかります。給料がたくさん上がるわけでもなく、将来についても不安がいっぱいあるなかで、今まで以上にたくさんお金を使う人が果たしてどれだけいるでしょうか。それにほしいものがそんなにありますか?自分はお金を使わないが、きっと誰かがたくさん使って景気をよくしてくれると思っているのでしょう。でもそれは無理というもの。
 一方、我々はこれまでに随分とふんだんにお金を使って来たことも事実です。10年前20年前と比べてみると驚きです。随分と便利になりました。楽しいこともたくさん経験してきました。人間の欲望は無限であり、欲望のあるところに進歩があるのでしょうが、「足るを知る」 ということも必要です。
 平和で豊かな自然に恵まれた世の中で、技術の進歩によって作り出された工業製品の山に埋もれて便利な生活を営んでいる今の姿は、ヨーロッパの中世の王様以上のレベルでしょう。それでも更にひたすら 「ものやサービス」 を追い求めていくことに、ある種の怖さを感ずるのは私だけでしょうか?
  「刹那 (せつな) 的享楽主義」 「拝金思想」 「軽薄短小」 は若き日に最も軽蔑 (けいべつ) していた人間の堕落した姿でした。鎌倉仏教を興した聖人達のひたむきな思索と修行と大きな人間愛に、ふと思いを致すと、「仕事」 「お金」 「もの」 や 「情報」 など即物的なものにのみ振り回されて、自分を見失いがちな日々の生活を恥ずかしく思います。我々なりに 「もの」 を離れたところで豊かさの追求があっても良いのではないかと思います。心の充実・精神的豊かさの追求ということでしょうか。
 古代ギリシャにおいて最初に興った学問は 「人間とは」 「如何 (いか) に生きるべきか」 「如何に考えるべきか」 といった観点から哲学・倫理学・論理学などであったと教えられました。人間にとって最も大切なことということでしょう。幸いにして飢え死にすることは当面なさそうな現在の生活だからこそ、自分をより深く見つめて心を高め、一度しかない人生を充実させることにエネルギーを注ぎたいものです。
  「もの」 から得られる満足よりも 「心の充実」 からもっと大きな生きる喜びと感動を得られるかもしれないと思います。そう考えると仕事に忙殺されて帰宅後はテレビに釘付 (くぎづ) けになるという生活だけではちょっと寂しくなります。それではどうしたらよいのでしょうか。みんなに共通する正解などはきっとありません。一人ひとりが自分にふさわしい答えを探し求めるしかないのでしょう。
  「人の世は自分を表現する場なのだ」 と司馬遼太郎は小説 「峠」 のなかで主人公の長岡藩家老の河井継之介にいわせています。今こそ我々は自分の人生の主人公は自分であることに思いを致し、人生と生活の設計をきちんと立てて、今までとはひと味異なる一歩を踏み出すべき時ではないでしょうか。



掲載の記事・写真の無断掲載を禁じます。ホームページの著作権は山梨新報社に帰属します。