2月11日付
来し方行く末

振り回される人生、輝き増す人生

情報と仕事は生きるための手段
かけがえない 「今」 を再認識する


 あらゆることを事前にきちんと設計して行動しようとすると、暮らしは息苦しく味気ないものになってしまう。だが常に時の流れに身を任せ「ケ・セラセラ」 と日々を送っていたのでは自分を見失いかねない。たまには来し方行く末に思いを致し、我と我が身の振り方に思いを巡らせてみる必要がある。
 情報化時代といわれて久しいが、この未曽有の変化に対して我々はこれまで適切に対処してきただろうか。この数十年間の科学技術の発達は我々の生活を色々な面で大きく変えた。とりわけ電化製品の普及によって我々の生活はかつて想像出来なかったほど便利になり、大きな時間的ゆとりを生じたが、同時に情報という名の怪物が生活を激しく揺さぶることとなった。
 せっかく生じた時間的ゆとりは人生を豊かにし、生き甲斐を感ずるようなことに費やされるべきなのに、その大半は時々刻々と変わっていくニュースや軽薄短小な番組に一喜一憂することに使われてしまっている。ゆとりのある生活をもたらすはずの科学技術がかえって人々の暮らしをせわしないものにしてしまっているような気がする。
 多様な知識が容易に得られるようになり我々は 「物知り」 にはなったが、それらの知識は我々を人間的に成長させ、人生を豊かにするうえで本当に有用であり、価値あるものなのだろうか。むしろ人間固有の 「思索」 の時を奪うことになってはいないだろうか。次から次へと迫ってくる情報は軽んずれば復讐(ふくしゅう)され、ものにしようとすれば消化不良に陥る、そんな不安におののきながら毎日を送ってはいないだろうか。身辺に漂う情報について、偏ったものになってはいないか、多すぎないかなど情報と自分の関係について一度見直してみる必要がある。
 世に 「情報通」 といわれる人々がいる。「通」 といわれる所以ゆえんは、彼らは常に非常に多くの情報を握っているということよりも、むしろ情報に対して 「主あるじ」 としての地位を保っているということのようだ。拾うべき情報とあえてパスする情報とを区別する物差しをしっかり持っていて、得た情報はきちんと整理し活用しているということだ。身の丈を越えた情報は、人を振り回すばかりでなく人間的魅力をも失わせかねない。人に活力を与えるのも、人をスポイルするのも情報であり、情報は使い手次第ということになる。
 我々を振り回すという点では仕事も同類である。「忙しくて」 という言葉が一日に何度も連発され 「忙しさ」 が美徳として通っている社会は、考えてみれば奇異な世界だ。忙しさは本来 「異常事態」 を表す言葉だと思うのだが、それが日常的に誰もが連発しているのは何かに振り回されていて、必ずしも自分の思い通りでない日々を送っている人が多いということなのだろう。それは極言すれば 「生きている」 のではなく 「生かされている」 ということになる。
 情報や仕事はよりよく生きるために必要な手段であって、人生の目的ではない。「自分の人生は自分で決める。一日一日は自分のものだ」 とあらためて腹に決めた時、人はもっと自信に満ちた顔になり一段と輝きを増すだろう。そしてただひたすら忙しいといって走りまわる日々から 「これで良いのかな?」 と、たまには立ち止まって自問自答する余裕が出て来るのではないだろうか。
 そんな時、先人の歩んだ道はまたとない教師の役割を果たしてくれる。「賢者は歴史に学び、凡人は経験に学ぶ」 というが、歴史小説や歴史書は我々に深い知恵を与えてくれる。高校生向けの倫理・社会や国語の教科書は年齢を忘れて人生に大きな希望と夢を与えてくれる。我々にも明るい未来がある、もっと頑張ってみようと勇気と自信をもたらし奮い立たせてくれる。
 我々は明日の自分のためにもっと考え、肥料を与え、投資をすべきではなかろうか。自分自身の未来に思いを致せば 「今」 という時は 「かけがえのない時」 であり、絶え間なく飛び込んでくる様々な情報に一喜一憂してはいられない。 



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