2月25日付
京都議定書

90年代の生活に戻るのは困難か

「6%減」と「14%減」の溝を埋めるために
便利さに慣れた生活パターン見直そう


 今回は子どもの頃の話から始めよう。私が小学生になったのは日本国憲法が施行された1947年。そのころ、日本は戦争に負けて、各地の都市はいたるところに焼け跡が残っていた。私が知っているのは東京の廃虚だが、甲府もかなり空襲にあって、中心街には何棟かの焼けたビル以外は何もない様子が写真で残っている。
 私の東京の家も焼けてしまって、4人の一家はしばらく6畳1間のアパートで暮らしていた。電気は暗い裸電球が1つだけ、冬でも暖房は炭火のコタツだけで、かなり寒かった。手足のしもやけとかあかぎれという言葉を若い人に分かってもらえるだろうか。
 戦災で産業の大半が機能停止状態だったから、あらゆる物が不足していた。いちばん切実だったのは食べ物。山梨では農家が多かったから、それほど深刻でなかったかもしれないが、戦後数年間、都会に住む私たちはいつでもお腹をすかしていた。その後、事情は改善されたが、肉のちょっぴり入ったコロッケがおかずの日は本当にうれしかった。お豆腐を買うときはナベを容器にもっていったし、お酒も醤油しょうゆも一升瓶をもって買いに行かされた。包装が簡単だからごみは非常に少なくて、1週間に1度、リヤカーに箱をつけたような車を職員が牽(ひ)いて、街角で鐘をちりんちりんと鳴らすと、バケツの生ごみを皆が出していた。
 着るものにも苦労した。ひざに穴があいたズボンにつぎを当てて着るのはあたりまえ、一着のコートを買うのは家計にとってかなり負担だった。
 自動車は営業のためにあるだけで、自家用車を持っていた家は本当に稀(まれ)だった。いまは駅前に放置されて邪魔にされる自転車でさえ、かなり高価なものだった。私が自転車に乗れるようになったのは、1時間いくらという貸自転車店のおかげだ。自分の自転車を持ったのは、高度成長で物資が出回るようになった高校生の頃。当然ながら、移動手段は公共交通か自分の足が基本だった。
 白黒テレビの試験放送が始まったのは中学生になる頃で、力道山の出るプロレスの試合を街頭テレビで人の頭越しに眺めたものだった。それ以前の家庭の娯楽といえばラジオ。あまり音質のよくない番組を一家で首を集めて聴いていた。テレビゲームもビデオもカセットも何もなかった。SPレコードは存在したが、庶民には高嶺(たかね)の花だった。
 都会では内湯があるのは例外で、誰もが街の銭湯にいって、風に吹かれて帰ったものだ。
 こうして書くと何だかひどく惨めな生活のようにみえるが、自動車が少ない道路は子どもの遊び場だったし、皆で暗くなるまでいろんな遊びをして、楽しく過ごしていた。テレビがない分、家族の会話も多かった。
 こんな話をしたのは、今月16日に発効した京都議定書で日本に求められた目標達成に関係するからだ。成立当時に90年水準の6%減であったCOの削減目標は、その後8%も増えたために今では14%という厳しい数字になっている。
 CO削減はエネルギー使用を減らすこととほぼ同じだから、14%も減らすとなるとかなり生活に影響がでそうだ。とても無理にも思える。しかし、ちょっと考えていただきたい。私がつつましくも楽しい生活をしていた少年時代の第1次エネルギー消費量は、統計でみると何と今の10分の1以下だ。つまり、その頃の日本のCOの排出量は現在の1割以下だったことになる。この頃の生活に戻るのは正直言って私も勘弁してほしい。しかし、90年の水準であればいくらでも我慢できる。
 削減の決め手の一つである環境税導入に大反対している産業界を非難することはたやすい。しかし、最終的にはそのエネルギーで生産・運搬された製品やその活動で提供されるサービスを利用するのはわれわれだ。
 世の中便利になりすぎて、本来の人間らしい生活から離れていっているような気がする。京都議定書の目標達成への取り組みを機会に、これまでの豊かさや便利さに慣れすぎた生活パターンを見直して見たいものだ。



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