3月4日付
非日常と日常

ゆえに試される文化度

勝ち抜き合戦の中で
「平穏」に戻れる山梨


 桃の節句も過ぎ、日一日と春が近づいてきました。この季節になると思い出す風景があります。北野呂の小高い丘にある桃畑、咲き始めた桃の木の下でワインと手作りのご馳走(ちそう)、夕日が残照を映しつつ南アルプスに沈んでいきます。甲府の支店長時代の大切な思い出のひとつです。桃源郷に住んでおられる皆さんが本当に羨(うらや)ましい。
 自然はちょっと大切にしてあげれば、われわれ人間が逆立ちしても創造できないような素晴らしい舞台を作ってくれます。社会のしがらみに振り回され、井戸の中で、もがいていると見えませんが、自然は心を癒(いや)してくれる原点です。
 先日、ある紙面で30年振りに懐かしい詩をみました。
  春の朝
 時は春、
 日は朝(あした)、
 朝(あした)は7時、
 片岡に露みちて、
 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
 神、そらに知ろしめす。
 すべて世は事も無し。
 上田敏の訳詩集 「海潮音」 に載っている19世紀イギリスの詩人ブラウニングの詩です。目を閉じると風景が浮かんできます。作ったブラウニングも訳した上田敏も素晴らしい。おおらかな春の賛歌ではないでしょうか。
 ところで、皆さんは何に幸せを感じられますか。“末は博士か大臣か”は古いかもしれませんが、“市場原理”の名の下に、勝ち抜き合戦に参加されている方々が多いと思います。自らを振り返っても、危機的状況になると変に気分が盛り上がるのは事実です。そして、平穏とか平凡はつまらないと思い、軽視してしまいます。でも、平凡であることは有難いことです。
 ここ数年、公私にわたり、“非”日常的なことが続きました。ドタバタの中で、平凡の幸せを逆に実感しました。平凡はいつもの日常の積み重ねです。だから本当はかけがえのない有難いものもありふれて見えてくるし、有難味も薄れます。そして失ってみて初めてその大切さが分かる。平凡であることは大切なことです。今年は久し振りに自然の美しさに浸ってみたい気分です。
 さて、最近世間を騒がせているニッポン放送を巡る攻防については様々なご意見があると思いますが、こうした動き (=新しい形の勝ち抜き合戦) は、善悪は別にして、今後はわが国でも東京を中心に増えていくし、経済を活性化させる効果もあるように思います。しかし、と言うか、だからこそ、“共に生きる”を軸とした世界の創造も不可欠になってくる気がしています。個人的には、人と人あるいは人と自然のあり方が大切なものとして見直される必要があるし、金銭的価値よりも文化的・精神的価値を大切にする文化度が試されることにもなると思います。個人個人の知恵と行動が求められ、これまでのように、困ったときにはお上や偉い人に頼むという訳にはいかなくなります。ちょっと大変ですがそれはそれで面白い夢がありませんか。
 山梨はそのための条件が整っています。東京よりも一歩リードしているし、東京の隣という立地がその価値を高める可能性もあります。時々山梨に戻ってホッとするのはそれを人や自然から感じるからではないでしょうか。あとは、皆さんの意識改革ですよ。



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