3月18日付
批判と当事者意識

県民は県政の 「当事者」 であれ

街づくりに参画する義務
“県民総評論家”時代を戒める


 太平洋戦争直後のいわゆる 「一億総懺悔(ざんげ)」 によって我が国では自らの手による戦争責任の追及が曖昧あいまいに終わり、続く高度成長時代におけるマスコミの急激な発達は 「一億総白痴化」 をもたらす、と高名な評論家に揶揄(やゆ)された。そして今や 「一億総評論家時代」 を迎えたかの感がある。
 健全な社会には客観的立場から常に冷静に、ことの是非を論じ、行く末を案ずるマスコミや評論家の存在は欠かすことのできない貴重な存在であるが、こと政治に関しては、大多数の国民や市民は、評論家である前に当事者でなければならないと思う。一部の熱狂的敵対者は別にして、通常の市民感覚の持ち主であるならば、自分たちの多数が選んだ首長や議員を少なくともその任期中は徹底して支援し、内外の圧力から彼らを守って、公約の実現を果たす努力を一丸となってしなければならない。
 選ばれた方にもそれに応えて誠心誠意胸襟(きょうきん)を開いて夢を語り、障害を乗り越えて成果をあげる活動が求められる。そこでは思想や主義に関する論争は二の次で、いかにしたら公約の実現がより効率的に確実にできるかという、いわゆる 「国益」 「県益」 「県民益」 を中心に据えた論議が主流となる。向かい合う対立ではなく同じ方向を向いた協調路線の上での対話しかない。
 そしてひとたび改選期を迎えた時には 「社会のオーナー」 としての立場から公約達成への取り組み状況・成果を厳しく判定し、あわせて今後はいかなる考えのもとに政治を行うべきか、誰に委ねるのが最善かを大いに議論し、自らに問うて投票する。こういう状況こそが議会制民主主義においてあるべき政治の基本的土壌ではないかと思う。
 あえて青臭い原則論を申し述べたが、筆者には国会の論議を揶揄している暇はない。わが故郷山梨県と市町村とを念頭においた感慨である。山本栄彦県政がスタートしてちょうど2年、「誇れる郷土 活力ある山梨」 を基本ビジョンとする 「創・甲斐プラン21」 をはじめとして、新しい県土作りに向けて数々の方針が打ち出され計画が具体化している。この状況は高度成長時代の後にいわゆる 「失われた十年」 を経てこれからようやく新しい福祉社会の建設に向かおうとしている今、時宜に適(かな)った取り組みであると思う。方向性には誰も異論はあるまい。
 問題は革新のためのエネルギーとスピードである。社会の変化と同程度か、それ以上のスピードで改革を行わなければ計画は時代遅れのものとなる。議会や県幹部は率先して前の時代とは異なった考えと熱意で、この計画の推進に取り組んでいるといえるのだろうか。県民は計画の実現後に訪れる心豊かな社会を夢見て、自分はどんな汗を流すことが求められているのか、何が出来るのだろうかと考え、当事者としての意識を持ち続けているといえるだろうか。
 トップに立つものは常に孤独である。「その調子、それでよいのですよ、我々は期待していますよ、がんばってください!」 と声を出して励ますことが、どれほど知事や市長を勇気づけることか。改革に取り組むリーダーに冷ややかな批判の眼(め)を注いだり、前に立ちはだかるようなことがあってはならない。それは彼らをいっそう孤独にさせ 「県民益」 や 「市民益」 を損なうことにつながるからである。
 首長にとって最も必要なものは選挙の時ではなく、平時における熱い支援の声である。知事に対する評価は、同時に議会や県民がどれだけのことを考え行動したかについての自分自身の成績表であると考えねばならない。
 県民は平時にあっては評論家ではなく、政治の当事者でなければならない。我々は地域づくりを共に進めるリーダーとして首長を選ぶのである。だから、ひとたび選挙で選んだ後は問題解決をすべて首長に丸投げし、税金さえ払えっていればよいというのは、変革を乗り切ろうというこの時にはふさわしくない。濃淡の差はあれ、何らかの形で参画することが義務であるし、少なくとも意識はリーダーと共に歩む当事者のものでなければならないと思う。
 行政組織にあっても、かつての許認可業務主体の時代の役人意識は払拭(ふっしょく)されねばならない。首長が新しい街づくりを叫ぶ一方で 「お上」 の意識で権力を振りかざしていることはないか。許認可業務だけなら組織は3分の1もあれば十分である。新しく生まれた市も、現状不変で行く町村にあっても、今や新しい街づくりのための正念場である。市民あげての意識と行動の変革が求められている。
 昨今、スポーツや芸能に関する記事に接することがあまりに多いために、我々には評論家の血が少し入り過ぎたような感がする。改革を進めて新しい県土・街づくりをしようとするときには一途な熱気が必要である。傍観者やレフェリーが多数を占めていてはことは進まない。
 マスコミや有識者が積極的に論評を行うことは彼らの当然の使命であり義務である。批判なき社会は堕落と腐敗に直結する。だがその前提には県民がしっかりした当事者意識を持っているという土壌がなければその社会は危うい。
 平和で豊かな社会にあっては人々がみな傍観者的批判者になりきってしまうことを厳に戒めねばならない。



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