4月29日付
高校入試制度改革

まだ、学区制ですか?

中等教育改善こそ最優先課題
「無智」 な若者つくらぬために


 山梨県立高等学校の学区制に関する検討を進めてきた県教委の 「県高校入学者選抜制度審議会 (入選審)」 は、現行の学年制普通科に適用されている学区制について、中学区から全県一区の大学区 (学区制撤廃) に変更する結論に達したという。これによって、県立高等学校の学区制はほぼ完全に無くなることとなった。今後、これへの移行を前提として、高校入試制度について議論を進めていくという。
 ここでせっかくの 「結論」 に異を唱えようというのではないが、時代がここまで進んできても、未 (いま) だ学区制の存否について議論することがあったのかという驚きを正直のところ禁じえない。高校教育については、進学率の急増期から一転して生徒数の激減期を迎え、また大学や短大など全国の高等教育機関がその定員を満たすに苦しんでいる状況下で、遅きに失したとはいえ、改革すべき喫緊の課題が山積していたはずである。そういう未来への展開についてではなく、この期に及んでなお大学進学競争に適合的な制度としての学区制について議論している意味が、筆者には理解できないのである。
 ここには、先に経済開発機構 (OECD) が発表した 「明日の世界への学びPISA2003」 という 「生徒の学習到達度調査」 の結果、日本の高校生の学力が諸外国に比べて著しく劣るという評価の影響が垣間見える。しかるに、PISA2003は、いわゆる 「学力」 を調査したものではなく、「リテラシー」 という応用展開力を調査したものであって、それこそこの国の 「学力」 観が持つ弊害そのものを指摘しているものなのである。
 そもそも、この国の中等教育は、大学進学率の高まりに呼応して、六三三四制開闢 (かいびゃく) 以来、進学予備校と化してきた。その結果、15歳にして文系だの、理系だの、はては国立コースだの、私学コースだのと、切り刻まれた教育をなされてきた。その結果、日本の若者は驚くべき 「無智」 を内在したまま大人になっていく。
 たとえば、近代史など入試に出題されないとしてほとんど教育されない。それどころか、理系進学だから社会科は一切勉強しなくてもよいとか、文科系学部志望だから数学や理科は勉強する必要がない、などという無茶がまかり通ってきた。そして、それもこれも全ては大学受験競争という、学歴主義の悪しき帰結であった。
 このような、劣悪な中等教育環境を改善しないと、それこそ国際化時代にあって日本人は世界に伍 (ご) して生きていけない。PISA2003が指摘したのもまさにこのことであった。
 いまや大学は目一杯広き門になっている。再来年の2007年には、高等教育機関の定員と進学希望者数が均衡化する。つまり、難しい注文さえしなければ、誰でもどこかの大学・短大・専門学校に入学できる勘定なのである。
 入選審の議論については、報道されている以上の詳細を筆者は寡聞にして知らないが、そこには大学入学試験に打ち勝つ学力を競争によって得ること、加えて、そういうシステムによって作られる 「名門校」 へ入学する権利を地域に偏せず開放すべし、ということではないか。もし、こう言ってしまって良いのなら、やはり今どき未だそんなことを言っているのですかと、やっぱり言わなくてはならない。
 いま、高校改革としてやるべきことは、あえて 「名門校」 と 「底辺校」 を作ることなどではない。そうではなくて、県下の既存の全ての県立高等学校において中等教育に課せられた本来の目的を実行できる質を確保することではないか。それによって、グローバルスタンダードとしてのPISAの学力観に合致する教育が可能となる。
 学校の良し悪しは、未だ誰も定かに目にしたことのない 「伝統」 などではない。生徒が有する秘められた可能性を発見してくれる良い指導者がいるところが 「名門校」 なのである。
 高校教育は、およそ15歳から18歳を標準とする思春期の、人の一生にあって最も豊かだが、最も危険でもある多感な年齢において、その年齢なるがゆえに獲得しなくてはならないものを学ぶ 「旬」 の場所なのである。それが、制度的な貧しさのためにこれを大学受験の予備門としたのは歴史の大きな過誤であった。今こそ、この矛盾を正すこと、それが県立高校に課せられた喫緊の課題なのである。



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