6月3日付
行政の裁量

責任回避の姿勢見える県

行政判断がカギ握る身延処分場問題
独自の安全確認手続きなど設定すべき


 私が専門とする行政法学の専門用語の一つに 「裁量」 という言葉がある。許認可その他、行政決定を下す知事や市町村長などの判断の幅、あるいは余地を意味している。決定の種類によって、その余地の大きいものと、かなり法規で制約されて小さいものがある。
 例えば、首長の人事権はこの裁量の余地がかなり大きい分野だ。自治体運営にあたってはさまざまな条件を総合判断して適材適所の人事を行っていかねばならない。そのため、この首長の人事権には裁量の余地が広く認められている。
 中道町の小林玄祥町長が町職員採用をめぐる疑惑で警察の事情聴取まで受けながら、「道義的責任」での引責だけで終わったひとつの理由は、この裁量の余地にある。もっとも、この裁量権を選挙で世話になった人へのお礼に使ったのは、全くの筋違いといわねばならないが。
 この町長は政治家としてはまことに正直にものを言う。合併の相手が決まらずに右往左往していた中で、なぜ合併するのかと問われて、「合併特例債を使いたいから」 と本音を語った。今回も支援者への報労人事だと公言している。辞職を決めた方をたたくのは本意ではないが、こんな人物が自治体の長に選ばれること自体が情けない。
 この選挙応援への報労は、実は県内いたるところで行われている。県内で最も注目を集める県知事選挙でもそれがあるというのは公然の秘密だとされる。県発注工事の内部情報を県職員が漏らし、これに基づいて功績のあった建設業者が仕事を落札するというのがその一つの形といわれる。事実とすればこれはれっきとした犯罪であり、こんな形の裁量権行使はぜひやめて欲しいものだ。
 これと対照的に、裁量の余地がある場合にも、事案に応じてはそれをことさら小さいように行政関係者が説明することがある。問題が複雑で、判断を下した場合の関係者のリアクションが厳しいと予測される場合にそんなポーズで責任回避を図るのだ。オウム問題への県の対応がそうだった。
 身延町で民間業者が進めている産業廃棄物最終処分場計画をめぐり、県は 「許可申請が出されて要件が満たされたら許可せざるを得ない」 という報道があったが (5月13日付本紙「記者の目」)、ここにもそんな県行政の及び腰の姿勢が透けて見えるような気がする。
 確かに、産業廃棄物処分場の設置は1991年までは届出だけで出来たし、97年法改正前は一定の要件が満たされれば許可せざるを得ない構造になっていた。だが、現在の法律ではかなり行政に裁量の余地があるようになっている。
 地域にとってかなり危険性をもち、いい加減な運営が許されないこの種の施設設置については、行政が諸条件を総合判断して許否を決められるのが当然なのだ。
 問題になっている処分場計画地は急傾斜地であり、その下流で町営水道や簡易水道の取水を行っている場所である。さらに、予定地の土地所有についても紛争があって、建設にかかってもこれが裁判で差し止められる可能性も否定できないという。急傾斜地での工事がそんなことで中断されたら災害は必定だ。
 旧明野村は産業廃棄物問題について知事に安全性確保や適地選定のための基準を定めた条例づくりを提言した。しかし、その後県庁内にはこれに対応する動きがあるのかないのか分らない。
 産業廃棄物処分場はかなり周辺に危険をもたらす施設であり、また、山梨には急傾斜地が多く、過去に激甚な災害を何度も経験している。こうした場合に、法律が定めていない安全確認手続きや適地選定基準を地域で定めることは当然だ。それを怠っていて、申請が出たら許可するしかないというのは責任回避だろう。地域住民の命と健康を守るために、こうした適切な措置をとるのも県行政の重要な裁量判断である。
 さらに、県行政には廃棄物の発生抑制という重要な課題がある。身延町に民間業者が計画している処分場は、県が北杜市明野町に計画しているものの2倍の容量だという。この計画が発生抑制という方針と矛盾しないのか。そのあたりもしっかりと判断して欲しいものだ。



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