7月1日付
大定年時代

「2007年」のムラ再生

過疎地に団塊世代招く
SOHO環境の整備急務


 甲府など地方都市までが爆撃にさらされるようになった太平洋戦争末期、村は人口急増に時ならぬ活況を呈していた。この時期、食糧増産が叫ばれ、他方で戦闘用航空機が払底して、もはや落下傘用絹布の需要も無くなり、養蚕業が無用になったために、農家の蚕室は空き家となっていた。これを好機と、被災地からの疎開者をそこに収容したからである。
 間もなく、敗戦。疎開家族も含めて、男たちが戦地から復員するようになると、村の賑 (にぎ) わいは最高潮に達した。あそこでもここでも、後に 「団塊の世代」 と呼ばれる赤ん坊が誕生し、一大出生ブームがやってきた。加えて、タケノコ生活を強いられた都会の婦人たちが、きらびやかな和服などを携えて買出しに来るようになると、時ならぬ好景気の観すら呈するようになった。
 だが、こんな賑わいも長くは続かなかった。敗戦直後の混乱が日一日と鎮まって、疎開家族が一戸また一戸と都会に戻るようになったのである。やがて、村には元の静寂が戻り、村の歴史始まって以来のシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤 (どとう))の時代は1952年春ごろまでには終焉 (しゅうえん) を告げたのである。
  「富める山梨」 を標榜した天野久県政によって新笹子トンネルが開通し、国道20号線が整備され、東京神田市場まで一夜でトラック輸送が可能になると、村の農業は大麦・小麦・サツマイモから果樹に作付け転換されるようになった。新しい農業の可能性は、村に明るい希望の光を射し入れた。
 だが、それもつかの間、池田内閣の所得倍増計画による空前絶後の高度経済成長は、つまるところ農村人口の、重化学工業を中核とする臨海工業地帯への壮大な人口移転計画でもあったから、少年少女たちは中学を卒業すると都会へ出て行き、あっという間に村は衰微してしまった。爾来 (じらい)、村が活況を呈したことは一度もなく、ここで新生児の産声を聞いてから、すでに40余年が過ぎた。
 今年の春の盛り、村で最後の赤ちゃんの父親となったKさんが死んだ。その日、手入れをしなくなってまるで野性に返ったような桃の木、戦後いち早く作付け転換されたあの桃の木に、ピンクの花が満開に咲き誇っていた。あの最盛期200人にもなった人口は、Kさんが居なくなって10人となった。平均年齢は73歳。村はまさに西行の歌 「さびしさにたへたる人のまたもあれな庵 (いおり) ならべん冬の山里」 (「山家集」) の風情である。
 以上は、筆者の故郷峡南地方の一寒村のごく大雑把 (おおざっぱ) な戦後史である。そして、山梨県内にはこれに類する地域はごまんとある。こういう地域にどうしたら、「庵ならべん」 人々を集められるだろうか。
  「2007年問題」 が今喫緊の課題となっている。言わずと知れた1947年から3年間続いた上述の第一次ベビーブーマーたちが還暦を向かえ、社会の第一線から退く初年度が2007年である。だから、この事態を 「大定年」 などとも言う。
 彼らの同世代は総計700万人。歴史上最大の同級生を持つ世代である。彼らは、高度経済成長の原動力でもあり、同時に繁栄の享受者でもあった。彼らの第三の人生を送る場所 「庵をならべて」 もらう場所を提供することで、村再生の最後のチャンスがやってくる。この機会をどうとらえるか。
 しかし、かくいう地域は、人情は厚く、自然は美しいが、無医村であったり、社会インフラが未整備であったりする。2011年7月24日午前零時には、テレビのデジタル化が完了し、現行のアナログ放送は一斉に停止する。これらの村々は、テレビも見られない地域になる可能性すら高いのだ。
 しかし、大定年時代の主役たちを招き入れるためには、SOHO(IT活用の在宅ワーカー)環境の完備は必須条件だ。山梨県では、県下全域にデジタルテレビ信号とデジタル通信を可能とする光ファイバー網を整備する計画であるが、それとても個人の家庭までの“ラストワンマイル”の整備は行われない。それは各自治体の課題として残されているのだ。財政不如意の中でこれをどう解決していくか、これも喫緊の難題である。
 過疎地で暮らす人々にとって、外部とのつながりを確保するネットワークは、何にもまして重要である。とりわけ、大定年後をここで過ごそうという人々にとって、過去とのつながりは必須の条件だ。一刻も早く議論を始めよう。



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