9月9日付
出演者と見物客

おもしろうて やがて悲しき

懸案棚上げ 「劇場国家」 を露呈
貧困な政治変える選挙民の一票


 やれ 「郵政解散だ」 と言う人があれば、いや 「やけっぱち解散」 だと言う者がいる。「小泉幕府軍」 対 「綿貫反乱軍」 の戦いだとか、「造反者」 対 「刺客」 の一騎打ちだとか、大時代的な用語が飛び交う。
 降って湧 (わ) いたような衆院解散・総選挙。よろず選挙好きの善男善女にとっては、近年まれに見る 「血湧き肉躍る」 一戦だろう。戦い済んで日が暮れて、何かが残るのであればそれもよし。だがしかし、この選挙の後に何が得られるというのであろうか?
 泥沼のイラクには我が国の 「人道支援」 部隊が駐留し、その継続か、撤退かの期限は年末に迫っている。当の自衛隊員とその家族にとっては固唾 (かたず) を呑 (の) んで見守る重要政治テーマだろう。戦争を始めた当のブッシュ政権との関係からも喫緊の最重要外交課題の一つだろう。時間が無かったことを理由にずるずる放置できる問題ではない。
 北朝鮮をめぐる休会中の 「六者協議」 は、隣国の核保有という特大の難問である上に、拉致という日朝2国間特有の問題も含んでいて、決しておろそかにできる課題ではない。そうでなくとも、日中・日韓・日露と地政学的近所付き合いは、どうみても四面楚歌 (しめんそか)。外交失敗のオリはうんざりするほどたまっている。
 外交と言えば、政府はかねてより国連の常任理事国入りは悲願だと、あんなに叫び続けていたのに、これもいつの間にか政治的論点からおっぽり出してしまったようだ。その他、地方分権と三位一体、年金問題、景気対策、失業対策、地震災害対策、行財政改革など、国内問題も待ったなしの解決が迫られている。
 郵便局をどうするかは、それが 「問題」 だと主張する限りにおいて 「問題」 なのだろうが、この国を取り巻くそれ以上の 「大問題」 をあげつらえばかくの如 (ごと) く、ざっと20や30列挙するのに時間は要らぬ。それなのに報道で見る限り 「名月赤城山」 か 「鍵屋の辻の仇討ち」 か、素人演芸会のにぎやかさだ。そう言えば、近頃流行の 「マニフェスト」 も、劇場の演目解説プロのよう。美しいだけで中身が何にも無い。これを「劇場国家」と言わずして何という。
 アメリカの文化人類学者クリフォード・ギアーツ (1926〜) は1980年、名著 『ヌガラ 十九世紀バリの劇場国家』 で、インドネシアのバリ島における政治統治の 「記号論」 について衝撃的な学説を発表した。
 かつてバリ島には数百ものヌガラと呼ばれた小王国があった。これらには、華麗なヒンズーの祭祀 (さいし) が無数にあって、その中で行われる王室儀礼を 「鑑賞」することによって、人々は実に自然に、権力によって統治されていたというのである。ヌガラは劇場組織のように構造化されていたので、ギアーツはこれを「劇場国家」と名付けたのである。
 ひるがえって我が国の政治家と民衆との関わりも、演芸会の出演者と見物客の関係に止まっている。この限りにおいてヌガラと同種であって、それゆえにこれを 「劇場型政治」 というのだが、今回の選挙ほど 「劇場型」 を露呈しているそれも珍しい。
 劇場演劇なのだから、芸人はそれなりに美男・美女がいい。氏や素性も大切。既に民衆の耳目を集めていたテレビタレントなどは特によい。かくして、政治的素養や才能などは二の次、三の次。平土間の観客の喜ぶことだけが最優先される。
 観客は、次々と繰り出されてくる役者に、「成田屋!」 と叫び、「音羽屋!」と吼 (ほ) える。絢爛豪華 (けんらんごうか) な舞台に興奮している間にすべてを取り仕切られて、緊要な政治課題は蜃気楼 (しんきろう) のように消えていく。この国の千五百年の歴史はまさに、こういう 「劇場型政治」 だったのである。
  「おもしろうてやがて悲しき鵜舟 (うぶね) かな」 (芭蕉)
 アユを捕獲する鵜匠 (うしょう) にとっては、鵜飼いは仕事であるが、これを岸辺で一盃 (いっぱい) やりながら見ているだけの観客にとっては、単なる時間の浪費だ。夏の川面に展開された鵜飼いの興奮が去った後に、岸辺に残るのは宿酔と空虚だけではないのか。甲州石和の笛吹川を舞台にした謡曲『鵜飼』の一節、
 「鵜舟にともす篝火 (かがりび) の、後の闇路をいかにせん」
 組織の質は、その組織構成員のレベル以上にはならない。政治のレベルを形成しているのは、畢竟 (ひっきょう)、我ら選挙民だ。観客としてではなく、主役として舞台に上がらない限り、この貧困な政治がいつまでも続く。



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