11月26日付
正常な国民感情

「過ち」 に優しい国・日本

犯罪に対して怒る活力失う
反社会的行為許さぬ眼を


 我々の社会は過ちに対して優しく甘すぎないだろうか。
  「優しさ」 は成熟社会の特徴のひとつであり、社会的風潮としては好ましい傾向かもしれぬが、時として社会を突き崩す“刃”になることもある。昨今、社会全体に何となくストレスがたまっていてすっきりしないように思えるのは、将来の生活が見えないもどかしさや足下の景気のためもあるかもしれないが、日々報道される嫌らしい犯罪の故でもあろう。
 残忍な事件ばかりでなく重大な過失や悪質な犯罪が目白押しである。国や自治体・各種機関における徴収不足や過払い・税金の無駄使いなどの行政上の過誤、医療ミス・交通事故などのいわゆる業務上過失、談合や贈収賄、さらには商法・独占禁止法・証券取引法など経済活動の基本的ルールを破って自分だけ不当利得を得ようとする悪質な経済犯罪などである。
 多くのものは意図したものあるいは未必の故意に近いものであり、単に不注意による手落ちということでは片付けられないものばかりである。釈明の席上、責任者は必ず 「再発防止」 を口にし、原因をチェック体制の甘さやシステムの不備などに抽象化してしまう。だが原因は本来もっと単純なものだ。手抜きや不注意、業務知識や技術の不足、希薄な責任感や緊張感などそこに働く人間そのものに真の原因がある。
 業務上過失はたとえ単なる不注意によるものであっても、業務上であるが故にその被害は大きくなりがちであり、本来 「プロとしてはあってはならない過ち」 なのだから相応の措置が当然だ。
 当事者は残念なことだが、あらためて他の業務か職業に就いてもう一度出直すしかない。別に全人格が否定されるわけではなく、適性がないのか能力が足りないのだからまたがんばってやり直せばよい。ただ、これまでの延長線上での 「敗者復活」 はないことは覚悟すべきだ。監督者も運が悪いといって済まされる問題ではない。部下が起こしそうな問題を予測し、事前に手を打つことが上司としての務めであり監督責任というものだ。
 過失や犯罪に対して我が国はちょっと甘過ぎるのではないか。被疑者や犯人の人権に対する配慮の声はよく耳にするが、罪に対する怒りの声はか細い。我々の社会は罪悪に対して怒る活力さえも失いつつあるのだろうか。悪に対して怒りを抑え、変な優しさを発揮することは社会全体から緊張感をなくし、忌まわしき過失を増大させることにつながりかねない。優しさを発揮するならば彼らの再起に対して向けられるべきではないか。むしろ被害や被害者に対してもっと深い思いを致すべきであろう。被害をどうやって回復するかを考え、支援の手をさしのべる中で自ずと過失の責任がいかに重いか、という思いに到達するはずだ。
 とりわけ意図した犯罪は絶対に許せない。「飲酒運転」 は覚悟の上の 「未必の故意」 だから免許を永久に剥奪 (はくだつ) されても文句は言えないはずだ。最低のルールさえ守らないなら車を使う資格はない。車を使わぬ世界に生きればよいのだ。これが本来の正常な市民感覚というものであり過失なき被害者の思いであろう。「談合」 「脱税」 「贈収賄」 「選挙違反」 などは社会の根幹をゆるがし、国家・国民・社会を敵視する反社会的行為である。しかも確信犯なのだから、それにふさわしい厳罰が当然だ。情状酌量の余地など全くないといってよい。量刑はもちろん司法当局の判断するところであるが、正常な国民感情とは本来こういうものだろう。「見つからなければよい。みんなやっている。運が悪かった」 といって同情するなどもってのほかだ。
 かつて我が国には犯罪者に対しては村八分などの厳しい反発があったという。それがいつからどのようにして馴 (な) れ合いが始まり、倫理感覚が麻痺 (まひ) してきているのだろうか。社会は善意を前提にした論理で成り立っている。従って悪意に対しては案外弱い。
 狙いすました悪意の前に社会全体が立ちはだかるためには多くの時間を要する。その間に徐々に病巣は社会に広く浸透して取り返しのつかぬ事態に陥ってしまう。その前に我々は病原菌に戦いを挑まなければならない。多くの過失や犯罪を未然に防ぎ社会の健全性を維持するためには、いささかの不正も許さぬ厳しい眼が社会に絶えず注がれていることが必要である。





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