12月3日付
“委員会”の多用

民主主義否定する 「審議会行政」

議会審議をバイパスするシステム
行政側に“珍重”される御用学者


 自民党単独政権でありながら、党内基盤の脆弱 (ぜいじゃく) だった中曽根康弘元首相は、国会対策として 「○○調査会」 やら 「××審議会」 と称する総理の 「私的諮問機関」 を多用して、衆参両院の議会論議をバイパスするシステムを創造した。「臨調」 や 「臨教審」 などは、その出色の装置であった。これが奏功して、中曾根内閣は、吉田内閣に次ぐ戦後2番目の長期政権を維持することができた。
 こういう風潮は、国にとどまらずすぐに地方首長も採り入れるところとなったから、今や全国津々浦々どこへ行っても 「○○委員会」、「○○審議会」は大流行である。委員会活動については、良い面も無いわけではない。しかし、その 「多用」 については民主主義の根幹にかかわる問題を持っていることを指摘しないわけにはいかない。
 こういうやり方は、議会審議をバイパスすることに使われることから、第一に議会軽視につながり、地方自治の根幹にかかわる問題を含んでいる。しかしこれには、地方議会議員の調査能力の不足、調査機能の未整備、政策立案能力の不足や人的資源の脆弱さなど、こうなるにはなったで、必然的な要因が無いわけではなかったのである。
  「委員」 は、もとより選挙で選ばれたわけではない。行政側で、その道の専門家を厳選するには違いないが、自らの意図を体して行動してくれそうな人をちゃっかりと選んで発令する、ということも無いわけではないだろう。  そういう場合に最も精彩を放つのが、委員名簿で有識者とか学識経験者とかに分類されてはいるものの、行政側の意図を熟知していて、その希望する落しどころに結論を誘導する 「御用学者」 の存在である。議会対策にとって必須な装置が、この御用学者であって、委員会の決定の権威は一にかかって、彼らまたは彼女らに負っているのである。
 御用学者を 「広辞苑」で引いてみると、「学問的節操を守らず、権力に迎合・追随する学者」 とある。こういう御仁とは深い付き合いは無いが、それらしき役割に熱心な人はたしかにいる。彼らは、誇るに足るような学問的成果や見識を持ち合わせないが、その無いことによる軽さこそが、利用する側からすると扱いよさとして珍重されるのである。
  「土建国家・日本」 を象徴するように、本県市町村でも今まで巨額の税金を投入して公共事業が行われてきたし、今も行われている。わけてもバブル経済期に行われた公共事業は、その多くが多額の後年度負担を招き、市町村財政を圧迫している。
 また、その当時に計画されて実施されていない事業でも土地などの塩漬け資産を地方公社などが抱えており、究極的には自治体財政の圧迫要因になることが予定されている。
 これら公共事業は決して行政が独断で決定したのではない。「○○事業構想策定委員会」 なるものが設置され、その中に例によって都市計画専門の御用学者が入ってまとめられたものだ。彼は机上で参加しただけであって、結果について何の責任も課されてはいない。
 先輩教授から聞いた話を紹介しよう。彼の同僚の息子で醸造学を専攻する若い 「学者」 がいた。この先生は甘党で、研究中も飴 (あめ) をしゃぶっているほど甘いものには目がなかった。ただウイスキーボンボンだけは駄目で、これを食べると前後不覚に酩酊 (めいてい) する。ゆえにバッカスの神とは全く親交はなかったが、俗界には強力な縁故があって、地方の醸造研究センターの長におさまった。
 以来、この学者は毎年地域の新酒品評会に招かれ、審査委員長として活躍するようになった。ボンボンで酩酊するほどの人が評価した酒の品質があてになるわけがない。かくて、それまで日本一の評価を得ていたその地の地酒は産地ブランドに傷がつき競争から脱落していったという。
  「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 (『類字名所和歌集』) と詠んだのは、平安中期の歌人能因法師。かれは、この歌を白河の関ではなく京の都で作ったのだという。はるばる陸奥まで行ったように見せかけるために、京都郊外の山里に姿を隠し、顔を陽に焼いてから、都に戻ってこの歌を発表した。顔が黒いから、さぞや長旅をしたのだろうと、たちまちこの歌は評判になったという。
 肩書きや顔色などで人を信じてはならない。虚飾と真実を見分ける力が、市民社会には求められているのだから。





掲載の記事・写真の無断掲載を禁じます。ホームページの著作権は山梨新報社に帰属します。