2010年1月29日付
技術立国

教育文化最貧国 日本

知的遺産は大半が「偶然」
いかに“分母”を豊かにするか


 哲学者で碩学(せきがく)の大阪大学学長鷲田清一さんに、フリーライターの永江朗さんという異色のコンビが「哲学」らしきものについて縦横無尽に語り合う『哲学個人授業』(バジリコ)という肩の凝らない本がある。深々と降り積む二月の雪の夜に、コタツにあたってみかんでも食べながら読むのにぴったりの本だ。ぜひ、ご一読をお勧めする。
 この書物の中に鷲田さんの発言としてこんな叙述がある。「日本でノーベル賞をもらうでしょう。島津製作所の田中耕一さんなんかは例外だけど、ノーベル賞をもらったらみんな急に文明批評をはじめるじゃないですか。教育論とかね。全然知らない領域ですよ。いままで考えたこともない。(中略)それは大衆の典型じゃないですか」。この対話は哲学者オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』の中から、「大衆とは自分が無知であることを知らない者」だとする陳述の説明として語られた部分である。なかなかの「毒舌」ではある。
 田中耕一さんとは、島津製作所の研究者で「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」で2002年ノーベル化学賞を受賞した人だ。筆者にとっては同門の後輩に当たるので、特に親しみを感じている。たしかに彼は、他の受賞者たちとは違ってテレビや新聞には出てこない。
 ここで鷲田さんは、「優れた専門家が必ずしも教養人であるとは限らない」という当たり前のことを言っているに過ぎない。これについては誰も異論を差し挟みはしないだろう。しかし、実際にノーベル賞受賞者だとか大学の偉い先生だとか聞けば、その人の語ることの全てが正しいと思ってしまう。これが、世論を形成して、とんでもない方向に社会を誘導していった事例は歴史上、枚挙に暇(いとま)が無く多い。  こんなことに思い当たったのは昨年来「事業仕分け」の中で、ノーベル賞受賞者や一部の大学学長ら「専門家」の発言が、世論誘導に大きな効果を上げているのが感じられたからである。
 いわく、「宇宙開発は技術立国日本の屋台骨だ」、「スーパーコンピュータ開発は世界一を目指す必須の装置だ」、はたまた「ES細胞の予算の減額は国家を崩壊させる」など実に過激な発言が相次いだ。これら有名「専門家」たちの発言は神かけて正しいのだろうか。
 「宇宙開発」や「スパコン」や「ES細胞」が重要なのは、そこが確実に発展する領域であることが誰にも分かっているからである。そこは、「開発」に税金を投入しようとしまいと、一儲(ひともう)けを企(たくら)む人や企業は虎視眈々(こしたんたん)と投資をするだろうし、事実している。つまり、ここに巨額の研究費を税金から投入するのは、他に上手(うま)い政策投資先が見つからないからである。
 実は、日本はOECD加盟国中で、教育・研究費への政府の投資額が最も少ない「教育文化最貧国」である。それなのに「科学技術立国日本」を標榜(ひょうぼう)して、国が定めた小数のプロジェクトに巨額の資金を投入してきた。何処(どこ)かで多過ぎれば他所(よそ)で不足するのが道理。この結果、日常の一般研究費は実に寒心に耐えない小額で済まされている。まして、若い無名の学者や、「科学」の範疇(はんちゅう)外に追い出された「人文学」や「社会学」などは、悲惨な状態に放置されたままだ。
 ところで、人類の知的遺産としての「大発見」は、言うまでも無く、未だ無名だった人々によって、ほとんど「偶然」に「発見」されたものである。それが、その発明・発見者の個人的才能のゆえであるとしても、これはほとんど「確率的」な「事件」と言っていいものだった。
 確率的であるということは、「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」式の水平的な環境が必須である。つまり、分母を豊かにして、分子に多くの成果を載せること、これが近代国家の文教科学政策の主意であるべきなのである。
 「真に独創的な科学研究がたった5%以下の人々によってなされていることは事実かもしれない。しかし、その人々のやっている仕事のかなりの部分は、残り95%の科学者がいて共に科学の水準を高めているのでなかったら全然なされなかったであろう」。
 近代情報科学の祖、20世紀最高の知性の一人ノーバート・ウィーナーの言である(『サイバネティックスはいかにして生まれたか』=鎮目恭夫訳・みすゞ書房)。
 今、混迷の時代、「専門家」の言といえども鵜呑(うの)みにしない判断力を持ちたいものである。



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