2010年2月26日付
4兆3000億円

「貯蓄」か「喜捨」か

惰眠を貪る“箪笥預金”
社会活動に投じ不況脱却


 ある慈善団体の責任者を務める友人が浮かない顔をしてやって来た。彼の言うには、このところ「寄付金」がまるで集まらないという。慈善団体にとって、寄付は死活問題だ。彼の顔が浮かないのは当然である。不況がそこまで深化して来たということなのだろう。
 もっともこんなことは驚くにはあたらない。日本人は寄付という行為をあまり好きではないのだ。手元の資料で見てもアメリカでは年間総額2000億ドル余(約20兆円以上)のお金が寄付など慈善資金に提供されている。これに比べて、わが国では約1000億円程度しかないという。世帯当たりで見てもアメリカの17万円に対して日本は年間3千円しか家計から寄付に充てられていない。
 もっとも寄付行為を行う機会もあまり無く、その主たるものは中央共同募金会の赤い羽根共同募金か、NHKの歳末助け合いなどごく僅(わず)かである。2009年赤い羽根の県内募金額は1億7600万円と少なく、かつピーク時のマイナス20%と減少が続いている。
 歴史的に見ても、日本人の「寄付行為」には、はかばかしいものが見当たらない。貴族や封建領主が寺院などを寄進した歴史は枚挙にいとまなく有るものの、その動機は一族の繁栄だったり、自身の極楽往生の祈願であったり、煎(せん)じ詰めれば「自己都合」が動機であるのがほとんどである。また、庶民の神社仏閣における賽銭(さいせん)なども一応宗教行為ではあるが、家内安全・無病息災・交通安全、いずれ自己中心、英語のフィランソロピー(博愛)に合致するような「精神」とは一線を画している。
 キリスト教を信奉する地域、中でも特にプロテスタントの国や地域では、人々の職業は神に代わって行う「天職」であったから、そこで得た収入は神に返さなくてはならない。この神に返す行為こそ「喜捨=アームズ(alms)」であり、これが慈善事業への寄付である。
 プロテスタンティズムより歴史的には古いイスラームでも「ザカート」と言って、喜捨はイスラーム教徒にとって重要な勤行である「イスラーム五行」の中にも数えられるくらいである。
 ところで、日本人は総額約1500兆円の預貯金残高を持っているといわれている。国と地方を合わせて戦後政治が作り上げた積年の財政赤字850兆円を、国民の責任として相殺しても未だ大枚の黒字が残る勘定である。
 山梨県に限っていえば状況はもっと顕著である。県民の預貯金残高は総額4兆3000億円。これを山梨県の累積財政赤字1兆円と比較すると実に4.3倍である。それなのにこれが箪笥(たんす)ならぬ銀行の金庫の中で惰眠を貪(むさぼ)っていて出てこない。銀行の金庫の中にある限り、投資の機会が無ければ出てこない道理。この不況下、企業の設備投資がこうまで冷え込んでいれば、この虎の子が冬眠から目覚めるのはいつになるか皆目見当がつかない。
 それでは、なぜ日本人は「喜捨」をしないで、かくのごとく「貯蓄」に励むのであろうか。それはこの国の歴史のどこを取ってみても、時の政府・為政者を人々が信頼することができなかったからではなかったか。遠く律令国家に始まり、平安貴族政治から、鎌倉・足利・徳川の武家政治は言うに及ばず、明治憲法下の近代政府も、戦後の自民党と官僚の作る政府も任せておいて人々が安寧だという信頼などほとんど無かったからではなかったか。
 甲州人にとっては、武田家のような強力な統治者はめくるめく戦争ばかりしていて、為(ため)に領民はいつ何時流浪の民に没落しないとも限らなかったし、江戸時代三百年の「被占領時代」には、徳川政権は人々の華美を禁じてまで重税を課したのだから、その苛政(かせい)下にあっては喜捨どころか貯蓄すらできなかったはずだ。時の政権を信頼しない習性が身についている。
 いま、「デフレスパイラル」が取り沙汰(ざた)される不況の真っ只中(ただなか)。これを打開するには国民の富が社会活動に参加することこそ必須だ。
 こう言ったからといって増税や無駄な消費をせよと言うのではない。預貯金のほんの一部でよい、NPOやNGO活動、ボランティア活動、はては政治活動にまで、未来のソーシャル・キャピタル(社会的資源)を地域に蓄積する活動に「喜捨」してはどうだろう。
 裏グロさがつきまとう企業献金にかわって個人の「喜捨」となれば「倫理の最高実践」たるべき政治を再建する一歩ともなる。政治の浄化のためにも「喜捨」は緊要だ。



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