2010年3月5日付
言論事情

自由な言論が育む民主主義

説明不十分だった明野問題
社会の活力は相互批判から


私としてはこの欄に寄稿する最終回になるので、「卒業直言」を書くことをお許しいただきたい。
 2003年から書いてきた「直言」で私が一番強く意識してきたのが自由な意見交換に支えられる民主主義ということであった。それは、言い換えれば、日本で、そして特に山梨で、さまざまな場面で自由な発言がしにくい事情があるということである。
 自民党政治の閉塞(へいそく)状態を批判し、政権交代で国政の刷新を訴えていた民主党が、政権の座につくと自党関係者の「政治とカネ」の疑惑にふたをする動きが露骨に出ている。
 民主党が数の力で国会審議を専断し、自民党が多数の横暴を非難するのを見ると、妙な空(むなし)しさを感じてしまう。少し前に、ほとんどの議論をすっ飛ばして、衆議院で強行採決と3分の2による再議決ばかりしていたのはどの党だったのだろうか。民主党も自民党も、議論を通じて相手方を説得するという議会制民主主義のイロハが分かっていないのではないか。
 民主党内を見ると、ここでも小沢幹事長が小沢チルドレンの数を背景に多くの議員を威圧し、鳩山首相でさえこれに対してきちんとものが言えない有様だ。民主党への不信感がさらに増殖したとき、それは単なる政権党の没落だけでなく、日本の民主主義の未来が失われるという危機につながることを怖(おそ)れる。
 山梨県内の言論事情については繰り返し批判をしてきた通りだ。とくに、明野の産廃処分場問題については、1994年時点でのボタンのかけ違いをついに改めることなく、事態はますます悪い方へと動いている。立派な処分場は出来たが、そこに収容すべき廃棄物が集まらず、5.5年という予定期間では到底満杯になりそうにない。県は埋め立て期間延長を要請する意向だが、このままでは最後は税金で帳尻を合わせることになりそうだ。
 地元住民への説明不十分なままに形だけの「合意」を取り付け、それを見直す機会を次々と失い、メンツを保つためにのみ計画を推進してきた結果がこれだ。
 地元にとっては晴天の霹靂(へきれき)のような処分場候補地の変更を県が地元に下ろし、地元では長老達がどのような危険性があり、どれほどの不安材料になるかをほとんど知らないままに幾つかの条件と引き換えに受け入れを決め、そして、表立っては反対意見が言いにくい地区総会で「同意」の議決。将来にわたって被害の不安を感じ続ける若い層や女性の声はそこにほとんど反映されていない。
 これが多くの地元住民には不条理と受けとめられ、激しい反対運動へと発展した。
 この間、計画を見直すチャンスは何度もあった。しかし、それについて知事を説得する部下はついに出なかった。県議会もこれについて責任を十分果たしたとは言いにくい。
 組織内部で固まって外部に硬い殻を作るという官僚制の弊害を、この山梨で特に感じてきた。トップの意向に少しでも反するような議論は避けようと言う雰囲気がこの背景にある。
 こうして県内メディアを通じて発言している立場としては言いにくいのだが、日本のメディア内部にも自己規制の雰囲気を感じることがある。これには多くの理由があるが、独自取材を軽視し、権力側の記者発表に多くを依存する体質に問題があることは間違いない。
 しかし、これはジャーナリズムとしては非常にまずい問題だと思う。
 いま、活字メディアは明らかに衰退の傾向にある。だが、特に新聞の果たすべき役割はなお大きい。インターネットには感情を抑制する仕掛けがない。映像メディアはしっかりと問題を投げ掛け、考えさせるという面で不十分なところがある。
 公共性を担うべきジャーナリズムは、理性に支えられた意見交換の場を提供するという重要な役割をもっている。そして、社会の活力は忌憚(きたん)の無い相互批判から生まれる。
 県内でもややマイナーな印象のある『山梨新報』ではあるが、その果たしてきた役割は決して小さくない。執筆者の一人である自分で言うのもなんだが、「直言」欄はしばしば県民に考えるべき問題を投げ掛けてきた。ぜひ、自由な言論のフォーラムとして、今後も『新報』が存在感を保ち続けることを願っている。



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