「山梨新報」2017年7月14日掲載
「信玄堤」で広く知られる武田信玄が進めた釜無川の治水事業の遺跡の一つとして伝えられる「堀切」。釜無川に注ぐ御勅使川には、いくつかの治水遺跡が残っているが、堀切は下流の釜無川に合流する手前にある。洪水を防ぐために、川左岸にある竜岡台地(韮崎市龍岡町下條南割)の〝岩を掘って、切り出し〟、川の流れを変えたことが由来とされている。地元の韮崎市ではその周辺を指す地名として定着しているが、最近の研究では信玄の時代以前に存在したとの説もある。
江戸時代後期の地誌「甲斐国志」には信玄の時代に水害対策として下条南割村(韮崎市)で岩を掘ったと記されており、これが信玄が「堀切」を築いたとされている〝根拠〟になっている。
「韮崎市誌」などによると、1542(天文11)年から60(永禄3)年にかけて釜無川と御勅使川の治水工事を行った信玄が、御勅使川北側にある小高い河岸段丘を掘って竜岡(同市)と野牛島(南アルプス市)の間に長さ33㍍の人口谷を作り、川の流路を変更したといい、「堀切」は御勅使川の下流にある狭い部分を指す地名としている。御勅使川に架かる橋(堀切橋・1978年完成)の名前にもなり、周辺には「歴史的治水施設」として堀切の案内板が設置されている。
一方、堀切の北東に位置する2006年の御座田(みざだ)遺跡(韮崎市)の発掘調査では、堀切によってできたとみられる御勅使川の小扇状地の遺構からは13~16世紀代の遺物が出土していることから、堀切が少なくとも13世紀には存在していた可能性もあるという。
また研究者の間では激しい水流によって竜岡台地を削ったような痕跡が確認できることなどから、堀切は御勅使川の流路の変化によって自然にできたとの説もある。
韮崎と南アルプスの両市は「人工的な治水施設か自然的に発生したものか、現在のところ判断できない」としている。
堀切をめぐっては、江戸時代中期の1700(元禄13)年、御勅使川沿いの野牛島村が堀切から突き出た岩を切り出そうとしたところ、対岸の御沙汰村(=御座田村・韮崎市)が流される恐れがあるとして裁判を起こした記録が古文書に残っている。てん末は不明だが、江戸末期の1852年の絵図には「みざた(御沙汰)村流跡」と記されており、村のあった場所は洪水などで流出したとみられる。
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