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信玄が奨励、漆産地に

漆戸
甲斐市
漆戸橋
余白 余白 甲斐市漆戸地区にある漆戸橋
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「山梨新報」2017年7月21日掲載

 戦国時代、漆は武具の塗料として重宝され、武田信玄はウルシノキを植栽し生産を奨励したという。このため、甲斐の国は江戸時代中期の百科事典「和漢三才図会」にも記載されるなど全国屈指の漆の生産地として知られていた。明治以降、養蚕が主力になるなど産業構造の変化に伴い、全国的に衰退したが、かつての隆盛は甲斐市漆戸(旧敷島町)に地名として今も残っている。
 県内の漆産地をめぐっては、県立博物館の寄託資料「桑原家文書」(個人蔵)の中に1560(永禄3)年、武田信玄が西保(現山梨市)、牛奥(現甲州市塩山)、江草(現北杜市須玉町)、亀沢(現甲斐市)、隼(現山梨市牧丘町)、平林(現富士川町)、七覚(現甲府市)から漆計160杯の上納を求める調達命令書が残っている。「当時の生産地が分かる貴重な資料」(同館)で同文書は1983年、県の文化財に指定されている。


漆の産地が記されている「桑原家文書」
(個人蔵、画像提供県立博物館)


 さらに江戸時代後期の地誌「甲斐国志」には1568(永禄11)年に岐阜(織田信長)への贈り物として漆1000桶(おけ)を用意したことや、1571(元亀2)年には信長から漆3000杯の所望があったことが記されており、戦国時代には有力な輸出品だったことがうかがえる。
 甲斐市の地名「漆戸」の由来について「甲斐国志」には「漆を採る者の家」を呼んだと記されており、同業者が漆栽培地に住み、集落になり、地名として定着したらしい。漆戸の地名は甲斐市のほか、北杜市須玉町江草の小字にも残っている。 敷島町誌には大正末期頃に「ウルシ栽培組合が組織された」とあるが、県によると今では県内で生産している人はおらず、県内にウルシノキの密集地も見られないという。  漆は県の伝統工芸「甲州印伝」にも使われるが、印傳屋上原勇七が運営する印傳博物館(甲府市中央3丁目)によると、漆が収穫できるのは夏至の前後3カ月のみ。国内では現在、東北地域などごく限られた場所でしか生産されていないため、多くの印伝業者は中国などからの輸入で賄っているという。

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漆戸橋地図
(Googleマップ)




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